臨時 vol 13 「国内での臨床研究が事実上不可能に」
~がん難民時代~
東京大学医科学研究所
先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門
准教授 上 昌広
■「高度医療」制度は事実上、実行不可能
骨髄移植を待っている患者さんがこの3月頃から移植を受けられなくなる可能
性があることが、先般、明らかとなった。必要なキットの不足が確定的という。
国内未承認のキットを輸入して使用する道もあるにはあるが、600~900万円程度
の医療費が患者負担となり、事実上、骨髄移植は手の届かないものとなる。そこ
で全国骨髄バンク推進連絡協議会(会長:大谷貴子氏)が、厚労省に迅速な対応
を求めるための署名活動を行っている。
※電子署名はこちら
http://spreadsheets.google.com/viewform?key=pqieimcJLRy0uIomKE4-eZw
いっぽうの厚労省は、「高度医療」という制度
(http://www.mhlw.go.jp/topics/2008/04/dl/tp0402-1a.pdf)をこの国内未承
認のキットに適用し、手続き的なことを含め医師にあたらせることを考えている
という。ところが問題は、「高度医療」制度そのものが様々な問題を内包し、事
実上、実行不可能な面が多いことである。すなわち残念ながら、「高度医療」制
度を適用しても患者さんが骨髄移植を受けられる解決策とはならない。
以下、「高度医療」を事実上、運用不可能にする要因のひとつ、厚労省の「臨
床研究に関する倫理指針」に着目してみたい。
■厚生労働省が「臨床研究に関する倫理指針」を改定
平成20年7月31日に改定された「臨床研究に関する倫理指針」(以下「本指針」
という)が本年4月1日より施行される
(http://www.mhlw.go.jp/general/seido/
kousei/i-kenkyu/rinsyo/dl/shishin.pdf)。
今回の改訂で注目すべきは、被験者保護の規定が新設されたことである。その
理念自体は肯定されるべきではあるが、方法を誤れば、わが国の医療に壊滅的な
打撃を与えかねない。実際、本改訂により、将来の国内のがん治療に大きな影響
を与える条項が含まれることとなったので、以下に紹介する。
■臨床研究による健康被害に対し医師個人が無過失賠償責任を負うことに
本指針の「第2研究者等の責務等1研究者等の責務等(4)(以下「本条項」と
いう)」では、「研究者等は、第1の3(1)1に規定する研究(体外診断を目的
とした研究を除く。)を実施する場合には、あらかじめ、当該臨床研究の実施に
伴い被験者に生じた健康被害の補償のために、保険その他の必要な措置を講じて
おかなければならない。」と規定されている。なおここで、「第1の3(1)1に
規定する研究」とは「介入を伴う研究であって、医薬品又は医療機器を用いた予
防、診断又は治療方法に関するもの」を指し、「その他の必要な措置」とは、
「例えば、健康被害に対する医療の提供及びその他の物又はサービスの提供」の
ことである。
条文のままではわかりづらいが、要するにこの条項は、医師個人に、臨床研究
の実施に伴い被験者に生じた健康被害に対し、
●無過失賠償責任を負うことを前提に、本指針に伴い民間保険会社により新設さ
れる予定の無過失賠償保険等に加入することを義務付けることないし、
●健康被害に対し医療の提供を行ったり、財物やサービスの提供をするなど履行
の方法を例示して、無過失賠償責任を負わせること
を規定している。
ちなみに、本指針「第4インフォームド・コンセント1(1)」には「・・・臨
床研究に伴う補償の有無・・・十分な説明を行わなければならない。」とあるが、
上記のように「研究者等の責務」として無過失賠償義務を規定している以上、補
償が無い場合は想定できず、無意味な記載である。
また、同じく「第4インフォームド・コンセント1(3)」の細則に但書として
「研究者等に故意・過失がない場合には、研究者等は必ずしも金銭的な補償を行
う義務が生ずるものではない」と示されており、医師は原則として無過失賠償責
任を負うものの、例外的に負わない場合がありうる旨が記載されているが、それ
が本来あるべき医師の責務の編に無く、何ゆえインフォームド・コンセントの編
にあるかは不明である。さらに言えば、例外的に負わないのはどのような場合か
がまったく不明である上に、そもそも本則と相反する規定を細則で定めるという、
矛盾を含んだ指針となっている。
そうしてみると結局、本条項の意味するところは、臨床研究によって被験者に
生じた健康被害について無過失賠償責任を医師等に負わせること、また、その支
払いを確実にさせるために、新設される予定の無過失賠償保険等に加入する義務
を医師に負わせること、というように言い換えられる。
■厚労省医系技官が医師個人へ責任転嫁
本条項が被験者保護の理念にもとづくものであり、この理念が重要であること
について異論はまず出ないであろう。しかし問題は、これを医師個人の責任とす
べきなのか、そもそも国として責任をもって取り組むべきことなのか、という出
発点の議論がすっぽり抜け落ちていることである。「医師の過失責任を追及する
民事訴訟とは異なる発想から患者の健康被害を救済しよう」という理念は、医療
政策の一環として、まさに国が実現すべき施策であるとは考えられないだろうか。
厚労省医政局研究開発振興課の医系技官が、このような政策立案に正面から取り
組むことなく、はなから医師個人の責任であるとして議論を進めたのは、なぜな
のだろうか。
本指針の改正に向けて厚労省の作業が開始されたのは、2007年6月である
(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/08/dl/s0817-7b.pdf)。厚労省はこれま
でも多くの国家賠償訴訟に悩まされ続けてきたが、2006年、2007年といえば、ちょ
うど薬害肝炎訴訟の結審が各地の地裁・高裁で立て続けに出されていた時期だ。
被験者保護という国民本位の発想というよりは、国家賠償訴訟を恐れ、官僚の
責任回避を第一とする思惑が見え隠れしないだろうか。
■損害賠償額の高騰化
仮に、医師に過失がなくても賠償責任を負うとした場合について考えてみよう。
昨今、裁判において認容される損害賠償額が高騰化し、訴訟数は増加の一途を
たどっている。特に死亡事例や障害等級の高い事例では1億円を超える判決が多
く見られるようになった。(実際、それにより日本でも医賠責(医師賠償責任保
険)は破綻寸前、あるいは実質的に破綻しているといってよく、医師が医療を続
けられなくなる医療崩壊もすでに現実的とする識者もいる。)
ここで、重度の障害が発生した場合には、いわゆる積極損害に当たる入院費用
(ほとんどの場合、入院費用は数百万円以内には納まる)については、金銭に代
えて現物給付として医師自らが診療をすることで代替できるが、その後の障害に
対する介護費用や逸失利益については、金銭をもって支払うより外ない。また死
亡事例においては、現物給付の余地はないので全額が医師負担となる。
となると、医師にそのような資力があることは稀であるから、保険への加入が
必要不可欠となる。
■新設予定の「臨床研究補償保険」の穴
しかし、本指針作成のために行われた平成20年7月10日の科学技術部会「臨床
研究の倫理指針に関する専門委員会」において、特別ゲストとして参加した東京
海上日動火災および損害保険ジャパンの両社ともに、「リスクの高い抗がん剤、
免疫抑制剤等は保険対象外」との意見を述べた。
東京海上日動火災:「抗がん剤についてはご指摘に近いような、引受けが困難
な状況は考えられるのではないかと思っています」
損害保険ジャパン:「基本的なスタンスとしては、抗がん剤は持たない方向で
検討したいと思っています」
第6回議事録(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/02/txt/s0213-2.txt)
第6回議事資料(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/02/s0213-6.html)
抗がん剤治療においては、軽度のものも含めれば、ほぼ100%の患者に何らか
の副作用が発生する。このような高頻度の健康被害に対する保険は、ビジネスと
して成立しないということは、容易に理解できよう。
したがって、この時点で本条項は医療現場に不可能を課す条項となったのであ
る。であれば当然、削除しなければならなかったにもかかわらず、厚労省は、上
記専門委員会から3週間後の7月31日に告示された「臨床研究に関する倫理指針」
において、本無過失補償条項を強行に採択した。
そして予定通り、東京海上日動火災や損保ジャパン、三井住友海上など大手損
保各社は、新設する「臨床研究の補償保険」において、抗がん剤を保険対象外と
する見込みとなっている(日刊薬業2009/01/20)。
■がん治療に対する臨床研究は事実上不可能に ~がん難民時代~
本指針はあくまで厚労省の「指針」であって、厳密な意味での法的拘束力は有
しない。しかし実際には、研究費等を"てこ"に事実上の強制力を持つこととな
り、結果として厚労省医系技官の更なる権限強化に与するものである。また、医
師が無過失賠償責任条項を含んだ臨床研究契約を個々の被験者と締結した場合に
は、当然に法的拘束力を生ずることとなる。何より、医師が行う臨床研究は、製
薬会社が新薬開発を目的として行う治験とは異なり、それを行うことで収益を生
ずるものではない。にもかかわらず医師に過度な金銭的負担を負わせるというの
は、事実上の禁止を言い渡しているのと同じである。
厚労省が医療についての監督・責任官庁であらんとするならば、山のような書
類と責任を現場へ押し付けて自己保身ばかりするのではなく、現場に活気を与え、
「何かあったら責任は厚労省が引き受ける」という気概を見せなければ、現場と
の溝は深まるばかりである。
■まとめ
以上、本年4月1日の「臨床研究に関する倫理指針」の施行により、国内での抗
がん剤の臨床研究が困難となることは明らかである。冒頭に紹介した骨髄移植に
ついても、「高度医療」制度による患者救済は、もとより見込めないといえる。
日本のがん治療は世界から大きく遅れ、日本のがん患者が適切な治療を受ける機
会を奪われることとなるだろう。
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